ようこそ山科へ おこしやす“やましな”協議会

 
天神社に史跡案内板を設置しました!

平成28111日に「おこしやす“やましな”協議会」では,「京都醍醐ライオンズクラブ等」と共同で,天神社境内に史跡案内板を設置しました。

こ の史跡案内板は指月城(※1)跡(伏見区)から発掘された石垣の石の一部が天神社付近から運び出されたものであることが判明したことから,このことを広く 周知するため に設置したものです。また,天神社(※2)周辺一帯は「大塚・小山石切丁場跡」として京都市から遺跡認定を受けております。


『帰ってきた石の由来』 
 大塚,天神社境内に据えられた三石は,2015年に発掘調査された伏見・指月城跡とされる石垣より移設したものです。
 伏見・指月城とは,戦国の世から統一に向かう画期の,豊臣秀吉が天正20(1592)年に居城を発展させ,明使(講和会議)を迎える為に鋭意築城された が,歴史的記憶にも残る文禄5(1956)年の慶長地震によって倒壊しました。 関ヶ原の戦いの後,徳川家康も伏見に城を築きますが,何れの時にも山科の 石は使われているようです。発掘調査地の所有者(株)大京をはじめ発掘を担当された(有)京都平安文化財さんや,文化財保護課の協力によってここに残置で きるのは,この大塚,天神社の背後(東)である「行者ヶ森」山一帯が,山科(大塚・小山)石切場の中心地で,昭和52年の刻印石(「角立ち四つ目結」)発 見以来,三十数年を経て平成23年に刻印「一に○」が再発見され,現在20以上の刻印が見つかっており,200個以上の石に矢穴や矢穴列痕が刻まれ,一例 を除いて全てが石英斑岩となります。
 平成27年4月,京都市の遺跡台帳に「641大塚・小山石切丁場跡」として登録され,この山の石垣石が全国からも注目されています。発掘関係者各位のご協力を得て,「山科の石」がふるさとへ帰ってくる事ができました。
                                                     中川・久保・永井・武内 記
                                                           2015年12月吉日
   


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